クリスマスの空気

「クリスマスは恋人と過ごす。」こうした過ごし方が世間の若い人たちには浸透してきたように思える。しかし、これを押し付けてくる傾向が気に食わない。なぜ恋人と過ごすのが当たり前ということになるのか。

元々クリスマスの語源は、Christとmasに分けることができ、Christとはキリストのことで、masは礼拝という意味がある。つまり、キリスト教の習慣である。

と言っても、このキリスト教の習慣がキリスト教徒でない日本人にも受け入れられていることが気に食わないのではない。日本の場合には八百万の神々が存在し、日常の全てに神様が宿ると考えられていた。一神教であるキリスト教徒の人は怒るかもしれないが、八百万の神々の一つとしてキリストを迎え、キリスト教の習慣を受け入れることは構わない。上述したが、クリスマスを恋人と過ごすのが当たり前というこの空気、さらに言えばそれを押し付けてくる空気が気に食わないのである。

クリスマスなんて所詮365日の中の1日だと思う。大半の恋人にとって、何のゆかりもない日だからだ。例えば、相手の誕生日や記念日は恋人同士にとって、祝うべき重要な日であると主張されたら納得できる。誕生日は相手がその日に生まれてきたので、その日がなければ相手はこの世界にいない。記念日は恋人にもよるが、二人が今一緒にいる契機となる日だ。しかし、クリスマスは恋人にとって何を祝うことがあるのか。

さらに、どうしてもクリスマスとなれば人が大勢クリスマス・スポットというものに殺到する。二人で過ごしたいのであれば必ず人が混んでしまうクリスマスではなく、その前後に出かけて、会うようにすればゆっくりと二人で時間を過ごすことが出来るのではないか。それなのになぜ好き好んでわざわざ人が大勢集まる日に一緒に過ごしたいのか。これもまた理解に苦しむ。

もちろん会うのであればそれぞれの恋人の好き勝手にすればいいが、この当たり前という空気をこちらに押し付けてくる空気が腹立たしい。