本音と建て前

普段私たちが過ごしている社会というものは、人とのつながりで形成されるものだ。その社会は特別な状況にいない限り、誰しもが参加するものである。そこに自分の価値観だけで正直に“本音”で話をしている人は煙たがられる。もちろん、単純に周囲の反応に対して鈍感の可能性もある。また、自覚しながらも「自分に偽りなく生きているから構わない」と主張する人もいる。しかし、少しでも人との繋がりがある社会に所属している以上相手の事を考えることできなければ、そこにいる人とのつながりから成り立つ社会を退出させられる危険性が高まる。

そこで大切になるのは“建て前”だと思う。全て嘘偽りなく話をするのではなく、自分の思っている事とは別の考えだとしても、時には言葉にする必要がある。そうすることで所属している社会が円滑にまわることができるのであれば、必要なことだと思う。

 しかし、現代では本音と建て前が消滅しつつある時代だと感じる。「ご近所トラブル」という言葉が増えてきたのもこれが原因の一つではないか(もちろん、家族構造の変化やお互いの共通認識の差異もある)。つまり、正直に自分の本音を話す人が増えてきたということだ。なぜこのような状況になったのか。

大きな理由として、欧米的個人主義の流出と考えられる。しかし、単純に個人主義的だからトラブルが増えたと理解するのではない。個人という発想に甘んじて本音を暴露していることが問題なのである。彼らには、「個人は個人だがその個人の集まりが社会という一つの集団になる」という考えが欠如している。個人主義的なのは構わないが、その社会内の秩序や規律を乱さない振る舞いが求められる。

もちろん、社会というものを絶対視するのではない。時にはその社会が過ちをおかすこともあった。しかし、個人といえども人とのつながりで形成される社会に所属する以上、本音だけを考えなしに垂れ流すような人は、居心地が確実に悪くなる。自分が所属している社会の空気を意識して本音と建て前を使い分け、もし自分に合わないのであれば自ら別の集団に移籍することがお互いにとっての居心地が良い社会を形成していく一歩となるのではないか。

バイトと社会人は同列なのか

最近バイト先の人と話していて、違和感を持つようになった考えがある。それは【バイトでの経験が(正規雇用の)社会人になっても役に立つ】というものだ。これには、例えば塾講師のバイトをして、教師になりたいという職業的に密接な関連性のある人には当てはまるのかもしれない。しかし、他の関連性の薄い人には本当に役に立つのか。

バイトと社会人では責任ある仕事をするかしないかが大きな差異だと思う。確かに最近では、バイトなどの非正規雇用が増えている。しかし、彼らは社会人と比較して、いつ辞めてもおかしくない存在である。自然と一般的な企業であれば、最低限の仕事を任せるために、責任が大きい仕事を任せるようなことはしないはずである。バイトもそれを分かっているために、嫌なことがあったら別の仕事(バイト)を見つけようと考える。もちろん、バイトもお金をもらっているから同じという人がいるかもしれない。しかし、上にも書いたが、社会人とは仕事内容が異なる。必然的にそれに見合った金額も異なるはずである。バイトは稼いでいるのに見合う最低限の仕事をすれば良いので、両者はまた別物なはずである。

このように環境が全く異なるのに、この両者を同列に扱うのはどうかと思う。それにも関わらず、先日バイト先で嫌な人がいた時に愚痴をはいていたら「我慢できないならば、社会人になって取引先で嫌な人がいた時に同じように我慢できなくて自分が困る」と説教を垂れる人がいた。彼の言っていることはもちろん納得もできる。しかし、環境が異なるのに同列に扱っていることが理解できなかった。

社会人になり取引先との会談とは社名を背負って臨むものである。バイト先で嫌な人がいても我慢しなければならないという話とは次元が異なるものである。これが仮に「社会人になって、同じ職場に嫌な人がいた時に我慢できない」というように変化したら、違和感は和らぐ。しかし、これも同じ職場に嫌な人がいてもいつか責任ある仕事を協力して遂行する可能性があるために、本音と建て前を使いこなして仕事をする必要がある。一方、バイトでは辞めて異なる職場に移れば良い。同列に扱うことはやはり違和感がある。

「バイトは社会経験」という言葉を全否定する気はさらさらない。仕事をしてお金を稼ぐのだから、部分的には社会経験となる。また、バイトでの経験が社会に出てから役に立つことも知らないだけであるのかもしれない。しかし、両者を同列に扱い考えて話す人には賛同はできない。

親切と社会

高校時代に松葉杖を使って生活していた時期がある。この時、小さなことではあるが、電車の中で座席を譲ってもらうなど、他者の「親切さ」を強く感じる機会を得た。たまたま居合わせた多くの人たちが親切にしてくれた。松葉杖を使っているという見た目にも分かりやすい状況であったから,周囲の人も気軽に手を貸してくれたのではなかろうか。というのも,見ず知らずの人に親切にすることはなかなかに難しいからだ。

しかし、他人に親切にするということは、円滑な社会を形成するうえで不可欠なものである。ここでいう「社会」とは、広辞苑に拠れば、「人間が集まって共同生活を営む際に、人々の関係の総体が一つの輪郭をもって現れる場合の、その集団」である。つまり、社会とは人と人との関係で成り立っている。

もし仮に、親切という意識も行動もこの世界に存在しないとすれば、自分中心に考える人であふれかえる。そうなると、そうした世界では人と人との関係が円滑に進まないだけでなく、人々の関係は希薄になる。そのような世界は、実質「個人の群れ」でしかない。

今日の社会には、そうした「個人の群れ」たる片鱗が随所で見られる。現在では直接他者と関わることなく、インターネットやSNSの発展により、他者との関係が希薄になってきている。しかも、一緒にいる時ですら眼前でスマホをいじる。したがって、他者と直接向き合う機会が減っている。これでは親切心は育たない。他者は無機質な画面の向こうにしかいないのである。

社会において不可欠な親切心を身につけるには、他者と直接向き合うことが必要だ。誰とも向き合うことなく一人でいる者には親切心は身についていかない。なぜなら、自分以外の誰かがその場にいて初めて親切をすることができるからである。

単なる「個人の群れ」ではなく、「社会」を形成するためにも、インターネットやSNSだけではなく、他者と一緒に同じ場所で時間を過ごしてみてはどうか。また、他者と会っている時にはスマホを控えてみてはどうか。その時、ちょっと親切心を発揮すればよい。親切は人から喜ばれるもので、他者との関係を築く上で気軽に行動に移せるものでもある。そうすれば、人々の関係は密になり、親切心に溢れた「社会」を取り戻せるだろう。

他者に認められる

他者に認められると嬉しく、認められないと悲しいと感じる人が世間では多いのではないだろうか。実際に自分にもそのような経験はある。部活で控えにいたときは監督に認められていないと悲しく感じたし、スタメンに選ばれたときは認められたと嬉しく感じた。しかし、今ではこれを疑問に思う。他者から評価されなかったとしても気にしない人もいるからだ。なぜ僕はそのように他者評価に一喜一憂していたのだろうか。

さしあたって、すぐに思いつく理由は、自分の判断力に自信がないというものである。自分の判断に自信がないと他者からの評価を当てにする。おそらく客観性を求めているからであろう。自分ではない他者からの評価なら、自分が下した判断ではないために、それが正しいと思い込むことができる。かつての僕がそうであった。自分の技量を判断できなかったのである。しかし、これでは相手の尺度によって測られることになり、振り回されるだけでなく、自分自身の判断力も育つことはない。

自分の判断力に自信があれば、他者の評価を当てにすることはない。やるべきことを把握したり、これで良いというように考えたりするようになるからだ。他者の評価が必要な状況であっても、他者評価は参考意見であり、少なくとも他者の尺度によって自分が一喜一憂することはなくなるであろう。他者評価と自己評価とを比較して、客観的に自らを振り返り、新たな判断をすることになるから、一喜一憂するような態度ではなく、冷静な態度で物事に当たれるであろう。

根本にある自分の判断力への自信というものを身につけるためには、相応の知識というものが必要になる。人によって程度の差はあると思うが、他者に負けない努力というものをしていれば、その分野では他者の評価を当てにすることはなくなる。その努力が知識に繋がり、判断力への自信にも繋がっていくはずだ。努力もしないで自分はできると思い込むような楽天家ならいざ知らず、こうした努力が自信を生むことは間違いないだろう。そして、他者評価は後からついてくる。独善でない限り、他者評価を参考意見として取り入れている限り、自己評価に続いて他者評価も上がるはずである。

だから、他者の尺度によって一喜一憂するような拙い判断力ではなく、自分の尺度で測れるような判断力を養いたい。また、相応の努力の末に他者評価の向上も後からついてくるような人間になりたい。

クリスマスの空気

「クリスマスは恋人と過ごす。」こうした過ごし方が世間の若い人たちには浸透してきたように思える。しかし、これを押し付けてくる傾向が気に食わない。なぜ恋人と過ごすのが当たり前ということになるのか。

元々クリスマスの語源は、Christとmasに分けることができ、Christとはキリストのことで、masは礼拝という意味がある。つまり、キリスト教の習慣である。

と言っても、このキリスト教の習慣がキリスト教徒でない日本人にも受け入れられていることが気に食わないのではない。日本の場合には八百万の神々が存在し、日常の全てに神様が宿ると考えられていた。一神教であるキリスト教徒の人は怒るかもしれないが、八百万の神々の一つとしてキリストを迎え、キリスト教の習慣を受け入れることは構わない。上述したが、クリスマスを恋人と過ごすのが当たり前というこの空気、さらに言えばそれを押し付けてくる空気が気に食わないのである。

クリスマスなんて所詮365日の中の1日だと思う。大半の恋人にとって、何のゆかりもない日だからだ。例えば、相手の誕生日や記念日は恋人同士にとって、祝うべき重要な日であると主張されたら納得できる。誕生日は相手がその日に生まれてきたので、その日がなければ相手はこの世界にいない。記念日は恋人にもよるが、二人が今一緒にいる契機となる日だ。しかし、クリスマスは恋人にとって何を祝うことがあるのか。

さらに、どうしてもクリスマスとなれば人が大勢クリスマス・スポットというものに殺到する。二人で過ごしたいのであれば必ず人が混んでしまうクリスマスではなく、その前後に出かけて、会うようにすればゆっくりと二人で時間を過ごすことが出来るのではないか。それなのになぜ好き好んでわざわざ人が大勢集まる日に一緒に過ごしたいのか。これもまた理解に苦しむ。

もちろん会うのであればそれぞれの恋人の好き勝手にすればいいが、この当たり前という空気をこちらに押し付けてくる空気が腹立たしい。

ひどい政府は愚かな民がつくる

これは明治初期に福沢諭吉によって書かれた「学問のすすめ」の一節である。今日の日本政府がひどいかどうかはさておき、近年、学問のない愚かな民が数多く出現しているようだ。それでは学問のない民が多くいると、はたしてひどい政府ができあがることの他に、どのような弊害が生じるのだろうか。

愚かな民を学問のない民と定義したが、言い換えれば「疑うこともせずに周りの意見に流される人間」のことである。すなわち、彼らは学問がないために、ある事柄において疑う材料や判断基準を持たない。したがって、彼らは疑うことを知らないために声が大きい者に引きずられて、その事柄の是非に関係なく、声のするほうに流されてしまう。流される間に、自分の意見が全てと思い込み、その事柄に関して有益な議論を拒絶する。議論が出来ないならば、深くその事柄を知ることができない。話し合うことを軸とする議会制民主主義において、これを弊害と言わずして何を弊害というのか。

連日、安保法案反対のデモが中継されていた。彼らがまさしく上述したような愚かな民ではないか。もちろん自分で疑い、判断し、反対であるからデモに参加する。これは素晴らしいことだと思う。しかし、彼らの中で、安保法案を疑い、判断し、参加したと見受けられる人がどれだけいたことか。むしろ、マスコミの報道を自分の意見として妄信的に信じているようにしか伝わらなかった。曲がりなりにも最高学府である大学にいる学生もである。

この現状を打破するためにはどうするべきか。教師の質を上げるために行動するべきなのか。義務教育制度の中で疑う意識をもつような授業を組み込むべきか。自分も愚かな民のために、この場で判断することは難しい。

もちろん、何が正しいことなのかは誰にも分らない。しかし、自分で疑い判断し他者と議論を深めることで少しでも正しい方向に導かれるはずである。ひどい政府に導かないためにも、私たちは愚かな民を卒業しようではないか!!

長男の役割

「お兄ちゃんだから我慢しなさい。」誰しもが一度は聞いたことあるセリフであると思う。なぜお兄ちゃんだと我慢しなければならないのか。まだ年端もいかない兄であったら理不尽ではないか。この理不尽さの根底にある、特に長男の役割はどういうものなのか。

明治期以降、日本では家父長制と呼ばれるものが導入された。これは言ってみれば父親がその家の顔であり、その長男がその家の顔を継ぎ、またその長男が家の顔を継ぎ・・・と連綿と続く価値観である。長男の役割は分かりやすく、家を継ぐという点でとても大きいものであった。

しかし、現代の家族という集団の中でこの価値観は一般的ではない。確かに一部の家、例えば天皇家や伝統のある家ではこの価値観は強く残っているはずだが、比較して一般的には古来ほど強く残っていない。

また、個人の意識が強い現代において、長男とはこうあるべきというレッテルを張るのはナンセンスなのかもしれないが、議論がすすまないので今回は言及しない。

それでは家を継ぐという影響力が小さいのであれば、現代の長男にどのような役割があるのであろうか。

それは良い意味でも悪い意味でもお手本になることである。これは普遍的なものでもあると思う。そもそも家族というのは人間が初めて所属する社会である。人間とは「社会的動物」であるために、社会で生きていかなければならない。したがって、家族という場でこれから所属する様々な社会生活で円滑に過ごすための手段を学んでいく必要がある。家族はこれから所属する社会とは異なり、血縁という関係や法的な縛りがあることがほとんどである。そのために失敗してもそこの社会から追い出されるということは少ないので、恰好の学ぶための場である。

つまり、長男は下の兄弟に自分の行動を見せて社会的生活の営みの手段を学ばせる必要がある。そのために例えば理不尽だが我慢するということを見せる必要もある。そのように見せておけば、弟はいつか成長した時にその必要性を理解できるはずだ。もちろん、幼少の時に我慢させられて下の兄弟に対して快く思っていない人もいるであろう。しかし、そういう時こそ『お兄ちゃんだから我慢』する必要があるのではないか。